本多正信があえて「権勢」を振るった理由
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第18回
■同僚やライバルたちの失脚
正信の関与は定かではないものの、多くの同僚やライバルたちが政治の中枢から退場していきました。
まずは秀吉死後の豊臣政権で実務能力第一の石田三成の失脚です。豊臣譜代の内部抗争が主因ですが、徳川家が意図的に仕向けた可能性が高いと言われています。
その後、徳川家内部でも人材の淘汰が始まります。幕政を担う同僚であった青山忠成(あおやまただなり)・内藤清成(ないとうきよなり)の両者は、突如家康の狩場を荒らしたという些細な理由で蟄居(ちっきょ)を命じられます。
家康から厚い信任を得ていた大久保長安(おおくぼながやす)は、経済官僚として家中で重きをなしていましたが、その死後に不正蓄財の罪によって一族郎党が排除されています。さらに1614年には、大久保忠隣(ただちか)も謀反を疑われて改易となり居城の小田原城を破却されています。忠隣の件は不行状が主な理由とされていますが、これは西国大名と親しい忠隣を排除する事が目的だったとも言われています。
このころ細川忠興(ほそかわただおき)が正信の「権勢」が10倍になったと評しています。すでに酒井忠次(さかいただつぐ)や榊原康政(さかきばらやすまさ)など古参の実力者たちも亡くなっており、幕府の中枢には正信に匹敵する実力者はいません。まさに幕府の今後を左右できる思われます。
■正信の理想とする社会
かつて正信が三河一向一揆に参加していた事を考えると、加賀国のように「百姓の持ちたる国」を思い描いていた可能性は否定できません。農民層を主体とした、もしくは大事にする共同体のような政治体制を目指していたのかもしれません。
正信は、一揆の鎮圧後に三河を離れ、加賀の一揆衆に身を寄せていたとも言われています。ただ、そのころの加賀は国人や地侍を中心にした農民層に近い体制から本願寺が管理する支配へと変わっていました。
正信は本願寺や一向一揆に見切りをつけたのか、徳川家への帰参を決めています。そして、家康の側近として自身の理想とする体制作りに尽力していきます。
ある時、正信は正純に対して「士農工商の士を木に、農工商の民を木の根に例え、根を大事に慈しみ育てるように」と説いています。庶民の繁栄こそが国家安定の源であるというのが正信の理想だったのではないでしょうか。正信は、この理想を実現するために、あえて「権勢」を握ったように思われます。
その後、強引な手法も交えて1615年に大坂の豊臣家を滅ぼし、将来の禍根を断ち、社会の安定化を図ります。それにより元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる時代を迎え、260年続く治世の土台造りに成功しました。しかし、後ろ盾である家康が亡くなり、その後を追うように正信が亡くなると、「権勢」の反作用が本多家を襲います。
■野望と「権勢」の反作用
正信から「権勢」を引き継いだ正純でしたが、2代将軍秀忠やその側近の土井利勝(どいとしかつ)たちに疎まれ、その勢いにも陰りがでてきます。そして、突如謀反の疑いにより正純は改易され、出羽国(でわのくに)横手において厳しい監視の元で生涯を過ごします。「権勢」を失った者への処置は容赦ないものでした。
現代でも、経営者からの信任をバックに辣腕を振るっていた者が、その後ろ盾を失った後、左遷や出向、大幅な降格という形で仕打ちを受ける例は多々あります。
もし正信が「権勢」を一手にしていなければ、本多家は大名として残れたかもしれません。しかし、理想とする体制を作るために、あえて「権勢」をしたのではないかと思います。
正信の事例は「権勢」の取り扱いの難しさを知る良い事例だと思います。
ちなみに正信も、自身の死後の反作用が起こることを予測していました。生前、正純には他者から恨みを買うため3万石以上の加増を受けないように、また2代将軍である秀忠にも正純に加増しないようにと伝えていました。
これは正信自身が「権勢」を握っている事を認識していたと思われる逸話だと思います。
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